知覧特攻基地戦没者慰霊祭 鹿児島県
太平洋戦争末期の沖縄戦において、もっとも多くの特攻隊員が飛び立った南九州市知覧で、戦後80年の節目となる慰霊祭が行われました。
●中禮記者・リポート
「戦後80年の節目、かつゴールデンウィークということもあって知覧には多くの人が訪れています」
戦時中、劣勢の日本軍が起死回生の策として採用した体当たり自爆攻撃、特攻。沖縄戦で他界した旧日本陸軍の特攻隊員1036人のうち、半数近い439人が本土最南端の航空基地、知覧飛行場から飛び立っています。
埼玉県・桶川市から来た臼田智子さん(81)の父親は当時32歳で、第二十三振武隊・特攻隊長を務め戦死しました。特攻隊員のなかで最高齢です。
●臼田智子さん(81)
「大変な任務であるということを父はいちばん良く知っていたと思うんですね。それをやはり乳飲み子を持った母にはきっと言えなかった」
生後半年の長男に宛てた出撃前の遺書には「お前たちの成長を見ずして去るは残念なるも、悠久の大義と生きて見守っている」と遺されています。その長男は、父が戦死した3ヵ月後に、病で亡くなりました。
「もちろん父は知りません。けども、でも特攻隊として出るにはやはりこの子がいるからという思いはあったと思います。この人字うまい。みんなうまいんだよこの人東京の人」
若くして亡くなる特攻隊員がほとんどのなか、ひ孫まで親族がつながっている隊員は珍しいといいます。
戦後80年の節目となる慰霊祭には、特攻隊員の遺族218人を含む約700人が参列。遺族の代表として臼田さんが慰霊の言葉を述べました。
「その後遺された私たちは懸命に生き抜き、5日、この日を迎えました。戦後80年、遺された家族や関係者も高齢化しております」
「80年過ぎてもやはり父のことは私、1歳でございましたのでまったく知らないんですね。でもここに来ることによって父が最後の地、そう思ってますのでやはり父に会えるのかなという思いできてます」
戦争の無い世界を祈ってー今年も、知覧の地に多くの花が手向けられました。